キリストの従順と謙遜(ピリピ2:1~11)
序論 「高慢は人の口から出る臭い息のようなもの。みんな顔をそむける。」といった牧師がいた。また、「謙遜・傲慢」という言葉を聞いたことがある。一人の神学生が作った言葉だったんだが、どんな意味かというと、態度、言葉、見た目は謙遜だけど、心や考え、思いは傲慢な人の事だった。この様に傲慢は人から嫌われるものである。しかし、謙遜は人を魅了し、人の心に感動を与える。固い心を溶かす力もある。神の子イエスキリストの性質だからである(マタイ11:29)パウロは神の子イエスキリストの謙遜に魅了された一人であり、そんなイエスのようになろうとし、イエスの足跡に従った人はいない。パウロが魅せられたイエスの性質、謙遜と従順を今日の聖書の御言葉から学ぼう。 本論 1キリストの謙遜と従順(6~8) 6~8節にはイエスキリストの ご性質である従順と謙遜が記されている。6節の「神の御姿」は「神の本質と同じ性格を持つ」という意味である。謙遜とは、自己放棄と言われるが、ただ、控え目に自分の言いたいことを我慢するのではなく、自分の勤め、責任を放棄するものではなく、自我、欲を放棄する精神からくる。イエスキリストは、神の御姿…神の本質と同じ性格という地位も身分も、尊い神の働き、ご計画の為に放棄された。そして、7節、天の位から人の位にまで降り、神と人に仕える者となられた。8節、この世の人々を罪と滅びから救い、神の子とし、天国へ導くため、命をささげて神の御心に従われた。(へブル5:8) 2キリストの謙遜と従順の結果(9~11) 9節 神がキリストをすべての存在に勝る実体と性質を与えられた。10~11節 この世の存在するすべての物が、イエスは救い主と宣言し、天の父がほめたたえられる為。キリストが、謙遜に従順されたのは、父なる神の栄光の為。そして、すべての人がイエスキリストは救い主である と告白し、救われ、神の子となり、天国に行くため。つまり、イエスの心と父なる神の心は一致していた。イエスが神の心を自分の心としていたから謙遜に従順できた。 3 キリストの姿を見ながら、私たちのなすべきこと(1~5) 1.一つになること。5節・一致を保つ・同じ愛の心を持つ・志を一つにする・・・・つまり、イエスと父なる神のように一つになること。パウロの願いでもあり、キリストの願いでもある一致(ヨハネ17:22~23)また、我らの守るべき一致(エペソ4:3)肉の歩みをする所に真の一致はない。霊によって歩み、キリストにあって生活する者の間だけに この一致がある。党派心、虚栄に生きることは、肉の行い、肉の現れ(ガラテヤ19:21~26)私が、私の考えが、私のグループが・・・私だけでなく、一致しよう。 2.一致のためには謙遜と愛が必要。3節 利己主義と名誉は生まれながら人間特有の物。人はこの虜になりやすい。(Ⅰコリント3:3)4節 謙遜な人は自分の思い、意見を無理に通そうとはせず、人に譲る。愛と謙遜のある人は自己中心であり得ない。自分を捨てる犠牲的精神により働き為、一致できる(1コリント13:5)ここまで見ると、イエスの謙遜と、我らの謙遜は次元が違う。イエスは、神の身分を捨て、地上の人生と命をささげて神と人に仕えた。我らの謙遜は、間違っていた、勘違いしていた自己評価を、正しく矯正するだけレベルどころか、次元が違う。しかし、私たちをキリストの似姿にまで変えてくださる約束がある(Ⅱコリント3:18)パウロも変えられた。私たちは、与えられた所で、置かれた所で一致、愛、謙遜を保とう。ミーアキャットという動物を知っているのか?アフリカの乾燥した砂漠地帯に住む、小さな狐のような動物である。彼らは30匹くらいの群れをなして生息する。ミーアキャットの共同体は「一人はみんなの為、皆は一人の為」というルールができている。彼らは天敵の鷹や鷲を警戒するため、互いに順番を決めて見張り役をする。見張り役は、より高く遠くを見るために 木の上や岩の上に上って周囲を見張る。他の仲間が食べ物を探し、おいしい餌を楽しんでいる間、この見張り役は、炎天下の中ちょっとの隙も見せずに警戒する。また、メスが子供を産むと、すべての成熟した群れのメスの乳腺が発達し、その子に代わりばんこに乳を与えて育てる。また、敵が攻撃してくると、彼らは自分の体を門代わりにして、巣穴の入り口をふさぎ仲間を守って死んでいくこともある。皆の命の為、自分の身を犠牲にして捧げる。残りの家族は、戦って死んでいく仲間を放っておかず、そばに体を摺り寄せて、体温を維持してあげる。こんなミーアキャットのような共同体があったら、人間社会は必ず変わる。私たちが、私たちの教会が、このような共同体になろう。一致と謙遜と愛のあるところが、このような共同体となれる。 結論 このピリピ人への手紙を書いたパウロは、獄中でこの手紙を書いた。ピリピ書は「喜びの書簡」と言われている。内容が、獄中の中にも関わらず、キリストを喜び、信仰生活を喜び、キリストを深く思い、キリストにならうよう努め、他の人にも勧めているからである。パウロはキリストに出会って人格も、性質も行いも180度変わった人である。イエスキリストには そのような力がある。私たちもパウロの様にイエスキリストのご性質…謙遜、従順と御言葉を心に刻もう。御言葉を行う歩もう。教えられたこと…一致,謙遜、愛、従順、日常生活、人間関係の中で、自分の中で何かうまくいかない、ギクシャクする、自我が出てきてると感じる時は「キリストに帰ろう」「御言葉にもどろう」と言い合って、自分に語りかけて、キリストの従順、謙遜にならおう。私の行い、言葉、自身が、キリストの似姿になるまで。
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もとめなさい(マタイ7:7-12 ) イェス様の御心は良いを与えることである。良い物をもらう為に私達がやるべきことがある。なぜ神様が良いものを与えてくださるのか?霊のお父さんだから。なので、良い物を受ける為に父なる神様に求めるべきである。 1.求めなさい。イェス様は求める者は与えられると約束された。しかし、実際には与えれれる者もいれば、与えられない者もいる。何故?正しく求めないから。求めなさいのギリシャ語は [求め続けなさい。]の意味である。 [受けるまで求め続けなさい。] とおっしゃった。しかし、人々は続けて求めようとしない。信仰がないからである。自分が捧げる祈りに自信がなく、本当に答えてくださるのか信仰がない。このように祈って応えがなかったらすぐ祈り課題を変えてしまう。このように祈って、応えなかったらすぐ祈りを変えてしまう。受け皿になっていないから、イェス様が与えれない。なので、自分が求めるものを受けることを願っているなら、続けて祈るべきである。信仰を持って続けて求めるならば必ず受ける。マタイ21:22-必ず受けることを信じて求めるならば全て与えられる。なので、祈る時に何よりも必要なのは信仰である。信仰の祈りは奇跡を起こす。マタイ17;20-信じて祈ったら不可能はない。信じて続けて求めたら必ず与えてくださる。祈る時に疑ってはならない。疑う者は何も受けることができない。ヤコブ1;6-7-ただ信じて祈る時に神様の祝福を受けることができる。知恵を求めていたソロモンは、全ての人にまさる知恵をいただき、子どもを求めていたハンナは、サムエルと5人の子どもを産んだ。彼らの祈り特徴は信仰の祈りである。彼らは応えられるまで信仰を持って続けて祈った。ソロモンは千回の燔祭を捧げながら神様に祈り、ハンナは神様と心が通じるまで祈った。イェス様に娘の癒しを求めていたカナンの女性がいた。マタイ15:22- *彼女は大きな声で叫びながら娘の癒しを求めた。しかし、イェス様はまるで拒むように何も話さなかった。弟子たちがイェス様に助けてくださるようにとお願いした。イェス様は彼女が異邦人であることを話しては助けようとしなかった。二回め拒まれた。その時に彼女はイェス様の足のところにふれ伏し「私を憐れんでください」と求めた。その時にイェス様が衝撃的な言葉を語った。マタイ15:26-勿論イェス様の言葉には深い意図があった。しかし、単純に傷つけられる言葉である。二回も拒まれ、3回目酷い言葉を言われた。マタイ15:27-求め続けた。 失望して帰ったり、あきらめなかった。彼女は自分が何故来たのか目的を知っていた。どんなことが起きるのか?娘は癒され、彼女は称賛された。マタイ15:28-イェス様が何故酷い事を言ったのか?イェス様が彼女はあきらめないで、続けて求めることを知っておられた。なので、 求め続ける 模範として用いた。求め続ける時に,必ず答えてくださることを彼女を通して教えてくださった。神様は求める者に必ず与えてくださる。なので、私達も信仰を持って求めよう。信仰の祈りは必ず豊かな実を結ぶことができる。また祈りはこの地にいる私が天におられる神様に求めることである。私達が求めたら、天におられる父が与えてくださる。この時に祈りの通路となるのがイェス様である。イェス様の御名によって祈るべきである。ヨハネ14:13-14-私達がまず求めるべきものがある。マタイ6:33-ノンクリスチャンはこの地のものをまず求める。しかし、神の民は神の国と義を何よりもまず求める。その人に全ての物を満たしてくださる。その人に神様は全てのものを満たしてくださる。神の国と義は何なのか?ローマ14:17-聖霊の中で義と平和と喜びがある。自ら正しく生き、人々とは平和に暮らし、神様を喜ばせる生活がつまり神様の国を求める生活である。このようにすることによって、人々にも褒められる。つまり神様の栄光を求める者が、神の国と義を求める者である。求める者に与える最高のプレゼントがある。神様の霊である聖霊様を与えてくださる。ルカ11:13-聖霊様は求める者に命を与え、力を与え、助けてくださる神様である。私達が求める全てのものが聖霊のところにある。霊と肉の祝福があって、勝利する生活が聖霊様にある。神様の知恵があり、神様の力がある。聖霊を通して実を結び、神の人として変えられる。このような祝福を受けるように。 2.求めなさい。探す者は見つかる。この言葉が与えるニュアンスがある。あなたがたが願うものがあるのか?それを探しなさい、そしたらそれを見つけることができる。探す時に神様が見つけさせてくださるという約束である。しかし、多くの人々が求めるものを見つけることができないまま生きている。ある者は人生の目的を発見することができなくて、あるものは生きがいをまだ見つかっていない。誠の幸せを探すことができなかった人もいれば、真の喜びを見つけてない人もある。忙しく、夢中に人生を送っている人も多くいる。また多くの人々が願うものの代わりに、願わないものを得ては苦しんでいる。何故?熱心に探さないから。見つけるまで探さないから。探さないものに神様は見せてくださらない。豚に真珠を投げてもその価値が分からないからだ。(マタイ7:6)神は熱心に求める人に見つけさせ、探させる。皆さんは人生の目的と幸せを発見したか。もし、見つからなかったならばそれは皆さんが見つかるまで探していないからだ。探せば必ず見つかる。熱心に探す時、皆さんが願うものが得られる。では、求めるものをどこで探す事ができるか。聖書だ。聖書は宝箱であり、神様は聖書の中に全ての宝を入れられた。永遠の命、天国に至る信仰、真の幸せと喜びも得られる。聖書を通して霊の祝福も肉の祝福も受ける。そして、何よりも熱心に探すべきものがある。それは、神様を熱心に探す事だ。神様に出会う時人生の目的が分かり、求めたものが与えられる。(箴言8:17) 神様は、ご自分をせつに求める者が神様に出会うと約束された。(エレミヤ書29:12-13)神様は最高の宝であり、私達の願うものは全て神様にある。この神様に出会いましょう。誰が神様に出会うか。求めて探す者。神様を愛し、せつに求める者が神様に出会う。そして神様はその人を祝福され、その人を通して働かれる。この祝福を受けますように。 3.叩きなさい。門は叩く人に開かれる。誰が成功するか。叩く人が成功する。世界は広いし、チャンスは多い。門を叩き、挑戦すれば必ず成功の門は開かれる。怖がって叩かないから成功の門が開かない。霊的なものも同じく、なぜ真理が悟れず、神様に出会えないか。真理の門が開くまで叩かないからだ。御言葉の門が開かなければ、誰も真理を悟ることはできない。神様は御言葉の門を叩く人に門を開いてくださる。(詩編119:130)皆さんに御言葉の門は開かれたか。もしそうでなければ叩きましょう。御言葉の門が開かれる時、天国の門が開かれる。そして、天国の門が開かれると、天から恵みと喜びがあふれるほど注がれる。このような祝福をうけますように。 結論:イェス様は良いものを与えようとしていらっしゃる。だから、求め続けるようにおっしゃった。求め続ける時、神様が良いものを与えられ、私達の力と努力で得られないものもくださる。これを受けた人は天の喜びと真の満足を得る。このような祝福を受けるように、主の御名によって祝福します。 聖書の年 (ヨハネ5:39 )
1. 聖書を通して永遠の命を得る。 聖書の中心メッセージは救いである。罪からの救い、裁きからの救い、滅びからの救い、その救いの真ん中にイェスイェス様が立っている。39節つまりこの聖書を通してイェス様を知ることができて、イェス様を通して永遠の命を得ることができる。 人はただこの聖書を通してのみ永遠の命を得ることができる。だからこの聖書は命の本、命を与える本である。ただ命なるイェス様だけに永遠の命がある。行4:12-讃美歌235章には聖書の言葉を命の泉だと表現した。ヨハネ7:37-38-…誰でも命の泉を通して命の水を飲み、命を受けなさい。だから誰でもこの聖書を通して救われ、永遠の命を得ることができる。聖書を開いて御言葉を読み、信じる時、天から永遠の命を得るのである。また聖書を通して人生の誠の喜び、幸せを得ることができる。生きがいのある生涯を送ることが出来る。 3. 聖書は問題解決を助けてくださる。世の中には良い物も悪い物もある。信仰の人にとって有益なものもあれば、有害なものもある。しかし、それを区別することが難しい。だから人々が悪くなり、失敗し、滅びてしまう。この全てを良く区別してくれるのが神様の御言葉、聖書である。神様の御言葉を鋭い剣だからである。ヘブライ4:12-御言葉が良いものと悪いものを分ける剣である。霊的なものと肉的なものを分けて、神様の御心と人間のこころを分ける。聖書の語源がキャノンでだが、それはものさしという意味である。ものさしを持って、長さを正確に測るように、聖書を通して正しいことが何で、悪いものが何なのかを区別することができる。神様の御言葉を通して善が何で、悪が何のか知り、正義と不義がどのように違うのかを知ることができる。いい加減に、善と悪を混ざり合わせて区別するのではない。ある時には善となり、ある時には悪になるのではない。神様の御言葉は鋭い剣なので、確実に区別することができる。また御言葉を通して信仰と不信仰を区別して、神様と悪魔を区別をすることができる。神様の御言葉がなかったら、悪魔のまやかしに騙されてしまうのである。悪魔が自身を光の天使として偽装して私達を誘惑するからである。Ⅱコリント11:14-15神様の御言葉ではなかったら、誰も騙されてしまう。今日多くの人が聖書を神様の御言葉として認めず、救い主イェス様を拒んでいる。滅びに向かって走っていながら全然気づいてない。永遠の裁きの前に置かれていることも完全に知らない。聖書の御言葉を知らないからである。彼らが聖書を正しく知っているならば、絶対不信仰の中で生きない。聖書を通して本物と偽物を知ることができるから。このようにただ神様の御言葉だけが本物と偽物を区別してくれる。また御言葉は病の問題を解決してくださる。癒しを求めて来た病人にイェス様は癒されよとおっしゃい、その言葉通りに癒された。 ローマの百部長は、自分の僕の癒しの為にイェス様を探しに来た。彼がイェス様に願ったのはイェス様の言葉だった。マタイ8:8-彼はイェス様の言葉だけで中風が癒されることを信じた。そのイェス様の御言葉がつまり聖書である。聖書の御言葉に従う時に、私達の全ての問題をきれいに解決することができる。 3. 聖書は人生のナビゲーション GPS知らない道を歩む時にナビゲーションは大きな助けになる。住所を入力し、電話番号を入力したら、知らない道を案内してくれる。人生をマラソンに例えるが、この人生のマラソンは練習なしに臨む競技である。あっちこっちぶつかって、傷を負い、失敗してしまう。 この険しい人生の道において聖書は一番正確なナビゲーションである。聖書は一番安全な道、一番正しい道を教えてくれる。聖書通りに生きれば、絶対失敗しない。また聖書は人生の道を照らす明るい光である。詩119:105-真っ暗な夜道を歩んだことがあるのか?光がなかったら危険である。石につまづいて倒れて、障害物にぶつかって、到底変なところに行きやすい。*人生の道は真っ暗な道と同じである。この世の中で起きていることを考えてみよう。霊的な暗闇の中で行く道を知らずお互いぶつかっているし、人間性も破壊され、家庭も社会も破壊してしまった。全ての人が霊的な暗闇の中で苦しんでいる。何故かと言うと、人生の道に光がないからである。しかし、神様を信じる私達には明るい光である聖書がある。神様の御言葉は予測できない人生の道を照らしてくれる光である。 .進学、就職、結婚、進路の問題、全ての問題の応えは聖書の言葉にある。神様の御言葉によって導かれる時に安全で平安に歩むことができる。詩編23:4神様の御言葉と共に歩み人生はわくわくする.この神様の御言葉を人生の指標としてほしい。神様をより頼る者を絶対失望させない。ローマ 10:11- 聖書は永遠の命を与え、問題を解決し、人生を導く神様の本である。なので、全ての聖書は有益である。2014年は聖書の年である。この一年間私達がやるべきことがある。 (1)聖書を学ぼう。 行8:30-31- (2)毎日聖書を読み、できるだけ暗記しよう。 (3)聖書の教え通りに生きよう。ヤコブ 2:17-聖書を学ぶ目的は聖書通りに生きる為である。 2014年このような信仰の人となるように祝福する。 |