21.1월 マルコ9:14-29 信仰と祈り
本文の中で、少年に働いたのは悪魔の仕業だ。 信仰も同じである。悪魔に影響されると神様の御言葉が聞こえない、口を開いて祈れない。皆さんは最後に口を開いて祈ったのはいつなのか? 悪霊の仕業、少年を滅ぼすことであった。悪魔が働くと自分を、感情も怒りも憎しみも自分も抑えられない。 イエス様を信じる時に御言葉が鋭い剣となり、悪霊を刺殺す。 イエスを信じるときにイエスの勝利が私の勝利となる。 父は少年を弟子たちに連れてきたが弟子たちは追出せなかった。 それを見て律法学者たちは論じ合ってきました。 悪霊が取り付かれたのではなく精神病である。 信仰は攻撃されたのである。 教会の中でも、悪霊に取り付かれたのではなく脳の病気、心理的、精神的問題だと教えている。 創世記から黙示録まで悪魔が登場してないところはない。悪魔はうつ病、精神病、家庭の中でも分裂を起こしている。 私達も悪魔の餌食になってしまう。 だから、身を慎み、目をさましていなさい。そして追い出そう。 イエス様は弟子たちを力がないと言ってない。不信仰だと言う。 現実の教会の姿も同じである。 神様の仕業も見られない。実も実らない。 私達は悔い改め、信仰を新しくしよう。 イエス様の言葉、信じる者にはどんなことでも出来る。 イエス様の話を聞いて少年の父は叫んだ。 [信じます。不信仰な私を助けて下さい] 私達も叫ぼう。 信仰がない私を憐れみ、助けてくださいと。 イエス様は応えてくださる。 そしてイエス様は弟子たちに祈りを教えた。 信仰と祈りは鷲の2つの翼の関係。両翼を力強く羽ばたくときに空を高く飛ぶことができる。そして山を動かす力が出る。神様の大きなことができる。 弟子たちは祈っていた。私達もいつも祈っている。教会に来て祈り、食べるとき、問題が起こるときに祈る。 しかし、なぜ祈りは無力なのか?イエス様のように祈ってなかったからである。 イエス様はどのように祈られたのか? 朝早く、祈るために努力した。努力する祈りは早天の祈りである。 祈りには早道がない。神様の力は多くの祈りから生まれる。 悪魔に勝つ信仰、悪魔を追い出す信仰、そしてこの力を受けてから神様の栄光のために働く。 神様の力を受け、神様のために大きなことをしよう。 そして苦しんでいる人々を救おう。 結論 信仰と祈りは一つである。 信仰ある人が祈り、祈る人が信仰がある人である。 信じて祈る人には奇跡が生じる。 絶えずに祈るときに神様は天の門を開いて力を注いでくださる。 今日私達は決断しよう。 イエス様のように祈ると決断しよう。力ある信仰を持って神様の働きを担おう。
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イエスは山上の垂訓を通してご自身が立法の制定者で、完成者であることを知らせ、山上のメッセージを通して神様の権威を示された。
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