諦められないものは価値があるもの或は自分に対して大切なものである。神様にも諦めないものがある。それが何か、恵みを分かち合おう!
1. 道に彷徨う羊 道に彷徨う羊はわがままで牧者の話を聞かない羊である。荒野で失った羊を探すことは本当に難しいこと。しかし牧者はあきらめず、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩く、そして見つけ出しては帰ってきた。 道に彷徨うその羊は私たちである。神様を否定し、正しい道、命の道を離れ、罪の中で好き勝手に生きていた。しかし、私達が神様の御子となったのは、神様が私たちを愛し、あきらめず、主が私たちの罪のために死んでくださったからである。だからイエスを信じて神の愛を豊かに受け入れよう。 2. 家を出た息子 父の財産を全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。息子は信仰が堕落した、神様を故意に離れた信仰者である。 神様を知りながらもこの世をもっと愛し、世に戻っていた信仰者。しかし、神様はあきらめない。その息子が救われるように神様は働く。 息子が帰ってきたとき、息子を見るや否や分かった。ずっと待っていた。 仮に罪の中で生きて今息を引き取ろうとするとしても救ってくださる。神は愛だからである。イエスの十字架で見ることができる。人は価値がない、罪だらけの人間は神の国に助けにならない。しかし神様は私たちを宝石よりも高価で尊く、愛している。 そして命を捧げて救ってくださった。 3. 私達がするべきこと 神様が私たちをあきらめなければ、救われた私たちがするべきこと。 私たちは教会へ召命をうけた。だから完全なる教会を建てるために、互に重荷を負い合うべきことだ。その時にキリストの律法は完成する。健康な教会、神が喜ぶ教会となる。教会が神の家なら、私たちは神の家族だからだ。苦しみを分かちあうこと。 私一人が良く信じることが良い信仰ではない。不従順の信仰者のために悩み苦しむのが神様のみ旨である。イエス様は彼らのために十字架につけられ苦しみながら死なれたからである。 結論 神様は決してどんな人も諦めない。 全ての聖徒は自分を一個人として思ってはならない。教会という大きな次元で見なければならない。 教会には働き人があって、傍観者があってはならない。 私たちはお互いに諦めてはならない。 お互いに忍耐し、愛し助け合うべきである。そして美しい教会が建てられていく。今年の聖殿建築は目に見える建築だけではなく、目に見えないわたし自分の聖殿も立てていこう。
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天の御国に入る人
2021・2・14京都礼拝 聖書:マタイ5:17~20 序論 今日の聖書個所よりうしろはまさに『私は罪だらけだ!』と思わされるところばかりです。 私は何度裁かれなければならないのか、何度燃えるゲヘナ(死の刑罰の場、地獄と同義)に投げ込まれなければならないのか。こんな厳しい罪の基準に対して誰が天国に入るのでしょう?しかし、私たちには天国の希望が有ると聖書に書いてあります。 本論 1 イエス様がこの世に来られた目的 聖書の御言葉を一点一画も間違わずに全て、つまりどんな小さな御言葉でも成就するためでした。私達の救いは、御言葉の成就であり、救われた者として神と新しい契約を結ぶことです。この約束の結果を私達が掴むために、み言葉を守るように教えています。 イエス様がこの世に来られた目的は、御言葉の成就である私達の救いと、救われて天国に入る人となることです。 2 義とは? 義とは神から頂いた救い、神を信じて、神の子、義人とされたこと。 罪からの救いは自分の力、努力ではできず、神の憐れみ、恵みにより救われ、義と認められました。(ガラテヤ2:16) 律法を守り切ることはできません。ますます自分の罪を示され、解決できずに苦しみます。(ローマ3:20) しかし、パリサイ人律法学者たちは律法を守ることのみに集中していました。彼らは守っていると言いながら形式的で都合のよいように変えていました。自己満足でした。 (マルコ7:10~13 ルカ18:9~13) イエス様は律法の本質を守れるように、真の義・・・・律法学者、パリサイ人に勝る義を持つ者となるよう、私達のために来られました。 彼らに勝る義とは・・・・神の救い、御国の民とされたことへの感謝を持ってみ言葉に従い生きる事です。 3 私は天国に入る義人として生きているか? 私たちはイエス様を信じ、神の子とされ義人となった。 この義が律法学者パリサイ人のように形式的で愛のない、神と人に証とならないものにしないように、御言葉の表面だけでなく、心の底から守るように教えています。これは日常の事であり、主が再び来られて天国に入る者、入らない者を分けられる時のことでもあります。 私に与えられた義(救い)を真実に守り、主の御言葉を行い、天の御国に入る人となるように。 天の御国に入る人はイエス様を信じ、聖書の御言葉を真摯に守り行う人です。 学びと決心 御言葉を守ることの大切さ、真剣さを覚えなければならない。律法学者パリサイ人のように形式的で愛のないものであってはならない。神と人を無視するものであってはならない。自分の都合で、自分の思いで御言葉を変えてはならない。 自分を顧みよう 今、主の前に立っている私が恥ずかしく無いように生きているか?主の御顔を喜び慕う心で見つめる事ができるか?今日主が私の命を取るから、審判の席に来なさいと言われても喜んで行ける自分であるように 序論
本文の聖書個所は山上の説教、3~12節は「至福の教え」、「八福の教え」とも言われる個所で、読めば読むほど違う恵みが溢れるほどあることを教えられた。 本論 1 伝道する時、怒られたり、冷たくされたりすると喜び踊ることは難しい。しかし、喜び踊りなさいと言われたのはイエス様。先に迫害、悲しみ痛みを受けられ、十字架で命を捧げ、滅びに行くしかない罪人の私に救いと天国の道をを開いてくださったイエス様。義(=イエスキリスト)の為に迫害される者を慰め、全ての涙をぬぐい、傷を癒してくださる。それらすべてを知っておられ、癒し、道を開いてくださるイエスを覚え、見つめよう。イエスが私にしてくださった事を本当に悟り、イエスを見るならステパノのようにいうことができる。(使徒7:54~56)天を見上げて、天国の約束を覚えて喜ぼう。不安も心配も取り除いて下さり、み言葉が行えるように助けて下さり、私を通して神のみ心をなして下さる力ある方を見つめよう。 2 地の塩、世の光となるために 13~16節で私たちは地の塩、世の光と書かれている。塩気を無くさないために、光を輝かせるために、この八福の教えと行いが必要である。自ら努力して行うことは迫害されること以外の7つ全て。塩が多すぎても(自分が出すぎても)少なすぎても(やるべきことを熱心にしない責任を全うしない)塩の役割を果たせない。私の居る所に愛し合い、助け合い、協力して良い味が出ているか?柔和で憐れみ深く、清い心で置かれた場所に溶け込んで平和を作り出しているか?この世にあっても、神の前に立つ日にも塩気のある地の塩であるように。八福に現れるのはイエスキリストの性質、そして、イエスは世の光である。私達はこの世でイエスに倣い生き、その光を私を通してこの世に照らし、その善い行いを、私を通して現す事。私の全てを通してイエスのように天の父が人々に崇められること。今のままの自分ではいけない。私達がキリストによって救われたのは、地の塩、世の光となるべく、神の前に心貧しく(謙遜に)自分の人の罪を悲しみ、柔和な心を持ち、神の義を飢え乾いて慕い求め、憐れみ深く人の罪を許し、心清めるべく自分を汚す世の誘惑、罪から離れ神の喜ぶことをするため。ピースメーカーとなって私が居る所に平和があるように。神の為に迫害されても、悪口を言われても天を見上げて天国での約束を覚えて喜ぶように。 結論 山上の説教は学べば学ぶほど、恵みの深い井戸から綺麗でおいしい水を汲み出すように思う。 御言葉を深く味わう人となり、生命の水を飲み、生きる人となるように。常に天を見上げ、私に約束された幸せの天国を手にしていることを覚え、イエスの性質にならい、謙遜で、罪を悲しみ、罪から離れ、柔和で、神の義を求め、憐れみ深く、清く平和を造る者になろう。私は地の塩、世の光であることを覚え、み言葉に従い、八福の教えを行うように。 21.2.7 マルコ2章1-12 信仰と行動
本文の中風患者はイエス様の所に来た。一人では来られないほどの 重症患者であった。しかし、彼は病気が癒され、罪が許される祝福をもらう。 イエス様の奇跡には二つの目的がある。奇跡そのものと奇跡を通してイエス様が誰であるかを掲示すること。 1. 癒されたい熱望 イエス様が来られたところには家の中、外側も多くの人々であふれていた。誰も中風患者に場所を譲れなかった。皆が自分の問題と願いを持って来たのである。この状況で人々はどうするのか?諦めて帰る。 ※私たちの話。 ●兄弟姉妹たちも、皆神様に出会うために、恵まれるため、自分なりに最善を尽くす。早天礼拝も、日にちを決めて祈りも捧げる。しかし、多くの人は途中であきらめてしまう。 ●体がついていけない。時間がない。それよりもっと大切なことがある。 ●正しく言えばいろんな障害物で信仰が躓いてしまう。 しかし、小さい障害物から大きな障害物まで、乗り越えるときに、神様に出会い、御国の祝福をいただく。 だから信仰が神様が求めるところまで行くこと。私の願いではなく神様が願うところに立つこと。 ●私の願うところに留まり続けると大切なものを命までもうしなってしまう。 彼らは屋根を壊すまで、イエス様に 会えなくするすべての障害物を取り除いた。 癒されたい強い熱望があったからである。だから罪が許され、救われた。 ●彼らは必死であった。必死に願い、必死に行動した。 信仰と行動は一つである。 必死に信じるため、必死に行動する。はらはらしながらすると絶対答えられない。信仰とはすべての方法と方案をあきらめ、神様にすべてをすがりつくことである。その時に神様は働いてくださり、奇跡が起こる。 2. 罪を許す権威 イエス様は病気を治すのではなく、罪を許し、彼は癒された。 彼の病気は罪によるものであった。 ある問題は、病気は罪が許されるときに癒される。罪の為に、私たちの霊も体も病んでいる。イエス様が許せない罪はない。イエス様に出ていこう。個人も家庭も地域も癒され健康になる。イエス様はどんな罪も許す権威がある神様である。イエス様を神様として信じ心から受け入れよう。永遠の命を与え、新しい人生を与える。 結論 信仰にいろんな障害物がある、しかし、止まってはいけない。諦めてはいけない。最後まで信仰を持って進めるときに奇跡を体験する。イエス様は私たちの罪を許すお方である。イエス様を信じ、罪が許され回復するように主のみ名によって祝福する。 |