序論 アハブ、イゼベルの紹介。本文から罪を防ぐ方法を学ぼう。 本論 1:罪を防ぐ方法1・・欲から自分を守る、欲を手放す。 21:1~4節・・神を畏れるイスラエル人ナボテと欲深いアハブ王 モーセの律法を守り王よりも神の命令を守ったナボテ(レビ25:23~28、民36:7) 土地は神との契約関係の証明,王でありながら、モーセの律法を悟らず自分の欲に従って怒ったアハブ(ヤコブ1:14~15) 罪の元をたどれば欲他人の物を欲しがる事、自分の物でない物に手を出そうとする事自分の中にこの欲が無いか? 欲=罪=死 欲をたどると死・・・滅びであることを肝に銘じてほしい。 2:罪を防ぐ方法2・・・御言葉の正しい理解と適用(21:5~10) 土地が自分の物にならないと怒り、すねていたアハブにイゼベルが悪知恵を吹き込み実行する。その時、御言葉を自分の都合のよいように悪用している。 ① 人を有罪にするには2人以上の証人が必要。(申命記17:6~7)イゼベルは長老たちを言いくるめ、ナボテに無実の罪を着せて、その証人とした ② 神を呪うものは石打ちの刑に処せられる(21:11~16、レビ24:16)イゼベルは神でなく王を呪った事を処刑の理由にしている。 御言葉は「神」なのにイゼベルはこの罪を犯すために御言葉を自分の都合に合わせ「神と王」と巧みに変えている。 罪をもたらす悪魔は神の御言葉を誤用し、神の民を破壊しようとする。 この罪をもたらす悪魔に対抗する為には、御言葉の正しい理解と適用が必要。 その為に礼拝や聖書勉強で御言葉を正しく教えてもらおう。 3:罪を防ぐ方法3・・日々、瞬間瞬間、主を畏れる事(21:17~24) ナボテの町の人々・・・町の有力者である長老と主だった人々は、イゼベルが王の名で送った手紙を実行し、報告した。神よりも、イゼベルと王の命令を畏れた。私達はこの長老たちの立場に立たされたらどうするだろうか?主を畏れる事を毎日の習慣にして本当の勝利者になろう。主を畏れる事を毎日の習慣にするためには・・・神の道を選ぶ習慣チェック。今日どの実を結んだか(ガラテヤ5:19~21肉の行い,5:22~23聖霊の実) 4:罪を防ぐ方法4…罪に対して敏感である事(21:17~24) アハブは預言するエリヤに向かって『わが敵よ』と言った。 罪に対して鈍感なアハブ・・・・ナボテが死んだ事を聞いても、心の後ろめたさも、罪の意識もない。アハブは自分に忠告してくれる人を敵と見た。 忠実な戒め者、恵みで痛みを与える人は、罪を犯す人にとって最善の友。 罪を犯すよう誘惑する人、自己満足に陥らせる人は、罪人の最悪の友。 私達は罪に対して敏感か?鈍感か? 忠告をどのように聞いているか?その忠告は自分をどのように導く忠告か、冷静に判断しよう。 5:罪を防ぐ方法5…一緒にいる人は良き信仰者であるべき(21:25~26) アハブはバアル礼拝を広める事に熱心だったイゼベルの影響を強く受けました。共にいる人に良い影響を与えるように、もらうように。良き信仰者と共にいよう。 6:神の赦し 1~5までアハブの失敗から罪を防ぐ方法を学びましたこんな罪深い、赦され難いアハブでも、神の前に真心から悔い改めれば罪が赦されます(27~29)。 神は愛です。赦しの神です。 今、罪が示されているなら、ただちに真心から悔い改めましょう。 そして、二度とその罪に関わらない決心をし、罪を防ぐ方法を実行して(使徒2:38)救いとは、心を180度方向転換して自分の罪を認め、イエスを主、救い主と信じる事洗礼は罪を悔い改め、イエスを信じた者が信仰の告白をして受けるもの。洗礼で罪が許されるのではない。 結論 罪赦され、神の子となり、罪から自分を守って、良き実を結ぶ者となろう。
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序論 先週、大阪宣教教会の20周年記念礼拝と伝道師の牧師按手式があった。礼拝を捧げながらずっと想い起された言葉は「神の恵み」だった。20年前の大阪宣教教会は全然希望が見えない教会だった。教会は9階マンションの屋上にあり、一回来た人は2度と来ようとしなかった。7年間そこにいたが到底未来が見えなかった。そこで私たちが悟ったのは自分らは無能な存在だということだった。しかし、今神様は80倍大きい教会を与えられ、祈祷院も与えられ、新学校を建てられ、7個の教会も建てられた。これは神の恵みなしでは有り得ないことである。それだけではなく、私たちの人生は神の恵みによってここまで来ることができた。使徒パウロは本文の中でこのように告白している。「私が私となったのは神の恵みである。」 本論 9節―パウロは教会を迫害していた者だった。ステファノの殉教の時に決定的な働きをしていた者がパウロだった。それにも関わらず使徒となったのでは神様の恵みの故だった。これが私たちの告白でもある。私たちは罪人である。一日も数え切れない罪を犯している。神の恵みがなかったら誰も義人となることができない。なので、パウロはこの恵み、この救いが神のプレゼントであると言った。エペソ2:8 10節―パウロは神の恵みは無駄にならなかったと告白している。なので、彼は他の使徒たちよりもっと多く働き、苦労した、しかし、それは彼がやったのではなく、神の恵みによるものだった。私たちもこのように告白するべきである。イェス様を信じる前の過去を考えてみよう。その時私たちは罪しか犯していない。神の為に何もやったことがなかった。イェス様は罪の本質についてこのように語った。マルコ7章:21-23 神の恵みがなかった時には罪しか犯さなかった私たちは、神が恵みを施してくださって、今は神を礼拝し、福音を伝え、神の栄光の為に生きることができる。パウロはまたこのように告白している。第二コリント3:5 私たちに誇れることは何もない。私はこのように奉仕し、献身したと誇れる事なんかない。神様の為の奉仕と献身が私から出たならば、誇っても良いが、私から出たものではない。私たち自らは神の為に生きることはできない。なので、逆に神の恵みにより、「奉仕と献身ができて感謝します」と告白するべきである。奉仕できる恵み、献身できる恵みを受けたからこそできるからである。奉仕をしないのではなく、できないのである。私たちの誇りはただイェス様の十字架でなければならない。カラテヤ6:14また試みに会うのも神様を知らないからである。私がこのようにやったのに、知ってくれないと試みに会う。自分がやったと思わないで、イェス様の十字架だけを誇ろう。謙遜に十字架を誇る者にもっと大いなる恵みを与えてくださる。箴言3:34 ① 救いが神の恵みである。神様はアブラハムを友と呼ぶほど彼を愛して、祝福してくださった。それでなぜ、祝福してくださったのかをアブラハムに聞いてみた。彼は聖書を通してそれは神の恵みだと答えた。実際彼は偶像崇拝者だった。神の一方的な愛により、彼は信仰の祖先となった。ローマ2:3 私たちの救いも同じである。私がイェス様を選んだのではなく、神が私を選び、信じる心を与えてくださった。なので、信仰は神のプレゼントであり、神の恵みである。 ② 義人と認められたのは神の恵みである。 神様は罪とが多い私たちを義人として認めてくださった。ダビデは神の御心にふさわしい者だと言われた人である。同じくダビデに聞いたみたら、それは神の恵みであると聖書を通して答えた。彼は律法を犯し、姦淫の罪を犯した。しかし、そんな彼がどのように神の恵みを受けることができたのか?神の恵みによって赦されたからである。イェス様の十字架を通して赦されて、義人となったのである。 ③ 神の働きをすることができるのは神の恵みである。 ペテロはイェス様の第一弟子だった。しかし、彼はガリラャ海で魚を捕っていた漁師だった。そんな彼が教会の柱のような存在として、大きい働きができたのは神の恵みだった。私たちは神の恵みによって生きる者である。救いも、義人として認められたのも、神の働きができるのも神の恵みである。私達がこの恵みを無駄に受けてはならない。第二コリント6:1 結論 この恵みを忘れてはならない。常に神の恵みを思い起こし、感謝して誇ろう。口を開けば「感謝します」と言おう。箴言8:17このような恵みを慕い求める皆さんとなるように主の御名によって祝福する。 |