本文是保罗给提摩太写的信。她劝勉提摩太要常存信心和无亏的良心。在信仰生活和日常生活中守住良心是非常重要的。丢去良心的话,我们的信仰也会沉船。就像在海中沉船就会淹死一样,丢掉信仰的话就会失去生命。所以相遇耶稣改变的人是有良心的人。圣经里税吏撒该遇到耶稣后变成了有良心的人(路19:7-9)。原来只爱钱的她,竟然把财产的一半分给了穷人。没有人教,也没有人强迫,只因他相遇了耶稣,良心得到了回复所以才会做这样的决断。耶稣对改变的撒该说“今天救恩到了这家”。所以说自己信耶稣,但是没有良心的人,是还没有相遇耶稣,得到救援的人。相遇耶稣的话,一定会变成有良心的人,但是有良心的人并不一定是神的人。所以为了得救我们要有信仰与良心。通过信仰,罪得到饶恕,因着耶稣的宝血,堕落的良心得以洁净(提前1:5)。今天通过良心,一起分享恩惠。 1.良心是刻在心里的律法。良心是我们心里的尺子。我们通过这良心分辨善恶。良心是神在人的里面写下的律法(罗2:14-15)。简单的说的话,①善恶的标准时神的律法②神将律法写在我们心里③写在心里的律法就是我们的良心。所以每个人都有良心。所以有良心是神存在的有力证明。因为有爱善恨恶的神存在,所有我们才会有良心。但不是每个人都过着有良心的生活。就像水有冷热,我们的良心也是不同的。所以良心不是得救援的基准。 2.良心的分类。(1)邪恶的良心(希10:22)。这是还没有相遇耶稣,罪没有得到赦免的人的良心。虽然每个人都有良心,但是因为良心堕落了所以是邪恶的良心。虽然也有有良心的人,但是不相信耶稣的良心都是邪恶的良心。通过教育,环境的改变能使人的良心改善,但是从根本上讲,人的良心是堕落的邪恶的良心。我们周围也有这样没有良心的人,自私自利,犯了罪也是没有一点的罪恶感。因着这样的人,善良的人会受痛苦。神会审判这邪恶的良心。能使这邪恶的良心结晶的唯有耶稣的宝血,因为耶稣已经付了罪的代价钉死在十字架上了(赛1:18)。虽然有的时候感觉这世上有比基督徒更有良心的活的人,但是通过那些好行为是不能得到救援的,唯有信耶稣,罪得赦免,良心得到洁净才能得到救援。(2)正确的良心。相信耶稣的话,邪恶的良心会变成正确的良心。然后洁净的人,也就是恢复良心的人就能与神交流。这正确的良心有软弱(哥前8:7)的特点。所以很容易被污秽。就像刚出生的婴儿免疫力低,柔弱一样,刚得到救援的人的信仰和良心都软弱。所以要学神的话语。学习神的话语是为了纠正我们的良心。所以教会生活,信仰生活很重要。通过这些我们能战胜魔鬼。当我们信仰不安定,不冷不热的时候,魔鬼回来诱惑,但是我们信仰坚定,有正确的良心的时候,魔鬼也不能攻击我们。(3)圣洁的良心。不是一定要按这三类去分类,而是综合圣经话语的话,可以这样分而已。拥有圣洁的良心的人是通过话语与祷告信仰成长的人。这样的人能分辨善恶,为了神的荣耀而活。圣经里面写到清心的有福了,因为他们必得见神(太5:8)。信耶稣的我们是良心得到回复的人。拥有了善的良心,圣洁的良心。我们要做的事就是守住这良心。我们犯罪后不悔改的话,良心会麻痹。麻痹的良心是无法分辨善恶,对错的。就变成对自己有益的就是好的,对自己不利的就是恶。犯罪了也没有罪恶感,得到恩惠也不知道感谢,自私自利的人就是良心麻痹的人(提前4:1-2)。一般人犯罪后会受到良心的谴责,但是无视良心的谴责继续犯罪的话,良心就会污秽,堕落。良心麻痹了的话,就无药可救了(希6:5-6)。所以我们要守住自己的良心,犯了罪的话就要马上悔改。 结论 基督徒要有良心,要过良善的生活,做有良心的行为。圣经并没有单单强调信仰。信仰要与行为相伴。也就是说有良心的行为,良善的生活,有良心的人生很重要。圣经里说凡人所当得的,就给他。当得粮的,给他纳粮。当得税的,给他上税。当惧怕的,惧怕他。当恭敬的,恭敬他。撒该的东西当归给撒该,神的物当归给神。不要想着自己舒服,自己好就行。我们是神的家族,是这世界的光和盐,所以我们要为了成为有良心的人而努力。我改变的话,家庭会改变,职场会改变,教会,社会会改变。神的国是通过信仰的人,良心的人来成就的。
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今日は良心について一緒に恵みを分かち合おう。 1. 良心は心に書かれた律法である。良心は心の中にものさしのような物。ものごとを正しく分別するのが良心である。、良心の辞典での意味– 善悪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。この良心は人間にしかない。動物の世界には本能はあるが、良心はない。しかし、人は自分の過ち、罪に対して恥を感じ、罪責感を抱く。このように良心は神様の形に似ている人だけにある物。この良心が神様の人間の心に書かれた律法である。ローマ2;14-15-わかりやすく言うと1. 善悪の基準が神様の律法である。2. 神様がこの律法を私達の心に書かれる。3.心に書かれた律法それが良心である。*なので、人間には皆良心がある。ドイツの有名な哲学者インマヌエルカントは「天に星があるように、私の心には道徳率(良心)があると言った。また悪いことをしたり、罪を犯す時に罪責感を感じるのは良心があるから。また善を好み、悪を嫌う心があるのも良心がある証拠である。なので、良心があるというのは神様が存在する証拠である。善を喜び、悪を嫌う神様が存在するから、人に良心が存在するのである。このように神様の存在を証明する証拠であり、また人に善悪を分別できるようにする心の基準である。皆良心的であるということではない。良心的な人もいれば、非良心的な人もいる。また良心的と言ってもお互い温度差がある。なので、良心は救いの基準にならない。つまり、良心的に生きたからと言って救われるのではない。律法を通じては救われない。律法、そして良心は裁きの基準となり、刑罰の軽重を教える基準にしか過ぎない。イェス様が以外に救われる道があるならば、あえて死ぬ必要がない。イェス様のが罪人の代わりに死なれたのはただイェス様だけが救いの道だから。罪人の代わりに死に、復活し、イェス様を信じる時に救われるのである。その時に良心が回復されるのである。このようにイェス様を信じて救われ、良心が回復するように願う。 2. 良心も区分良心を区分するのは易しくない。しかし、理解しやすいように良心をいくつか区分してみる。 (1) 邪悪な良心ヘブライ 10:22-イェス様を信じる前の罪、罪赦しの良心の状態である。全ての人に良心があるが、その良心は堕落したので、邪悪な良心である。勿論良心的な人も多い。しかし、それにも関わらずイェス様を信じる前の良心は皆邪悪な良心である。このように全ての国がそうであれ、全ての時代、全ての人々が邪悪な良心を持っている。●教育を通して良心が改善され、環境の変化が良心に刺激を与えることはある。 しかし、根本的に人間の良心は堕落した邪悪な良心である。私達の回りにはこのような非良心的な人がいる。良心よりは自分の利益をまず計算し、行動する。他の人は被害を受けるかまいか「私は自分さえよければ」と考えて行動する。自分しかわからないし、他の人の事は全然眼中にない。軽く嘘をつき、躊躇なく罪を犯す。良心がないように行動する時に、誰かが被害を受けてしまう。これが邪悪な良心である。 神様がこの邪悪な良心を裁かれる。●この邪悪な良心が聖くなり、救われる唯一な道がある。ただイェス様の血を通して清くなることができる。何故ならイェス様の罪の代わりに裁かれ、死んでくださったから。いくら邪悪な良心であった、イェス様の血潮を通して、清められる。どのぐらい清められるのか知っているのか。神様がこのようにおっしゃった。イザヤ1:18- (2) 正しい良心イェス様を信じたら邪悪な良心が変わり正しい良心になる。イェス様が清めてくださったから。また清くなった者、つまり正しい良心を回復した者は神様の交わりも回復できる。ヘブライ語10;22- 罪は神様と人間の間に大きな壁を作ってしまう。なので、罪人は神様と交わることができない。.しかし、イェス様を信じて罪の壁が除去されたので、神様とも霊的な交わりが可能になった。神様は救われた私に語り、私は主の御声を聞き語ることができる。例:私が罪赦され、救われてから心の中の語られる神様の御声が聞こえた。私の思いでも想像でもない、他の声でもない。神様の御声であることを私の霊が知り、私の良心が分かった。このよう正しい良心となった者は神様に近づくことができるし、霊的な交わることができる。●.この正しい良心の特徴がある。「.弱い」ということ。なので、すぐ汚れてしまうということ。Ⅰコリント8;7-…、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。良心が弱いが故に汚されてしまうという。救われたばかりの聖徒は信仰と良心が弱い。なので、神様の御言葉を習うべきである。その時に信仰が成長し、良心は強くなる。御言葉は私達の魂の鏡である。なので、常に御言葉を通して自分の良心を照らし合わせる必要がある。何故御言葉を読み聞くのか。良心を正しくする為である。なので、教会生活、信仰生活はとても大切である。この教会生活、信仰生活を通して悪魔に勝利することができるからである。悪魔も同じである。.私達の信仰が不安定でなまぬるかったらすぐ探してきては誘惑し、試みる。しかし、信仰が強く、良心が正しかったら絶対攻撃できない。このような強く、正しい信仰を持つことができるように願う。 (3) 清い良心 清い良心の人々は御言葉と祈りを通して成長する信仰の人々を言っている。その人はもはや善悪の基準が明らかで、神様の栄光の為に生きる人である。 月は自ら光を発することができない、それにも関わらず月が暗闇を明らかに照らす理由がある。太陽の光を受けて、その光を反射し、暗闇の夜を明るく照らすである。このように清い良心は神様の恵みの光を受けて暗い世を照らすのである。このような人が世の光と塩である。マタイ5:8-心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。詩編24;3-4-主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。 このような良心の人となるように願おう。神様の姿を現すそのような人になるよう努力しよう。●イェス様を信じる私達は良心が回復された者である。良き良心となり、清い良心として回復された。これから私達がやるべきことは良心をしっかりと守るこいとである。良心を守らないと、汚くなることもあり、堕落することもある。罪を犯してから悔い改めないと良心が麻痺してしまう。良心が麻痺されたら善悪を区分することができないし、正しいことと間違ったことを区別することができない。Ⅰテモテ4;1-2- 普通の人は罪を犯したら良心の咎めを感じる。しかし、良心の咎めを無視し、続けて罪を犯したら、良心は汚され、堕落してしまう。それにも関わらず悔い改めないと「良心が麻痺してしまう」。良心が麻痺してしまったらどうすることもできない。ヘブライ6:5-6- この段階まで行くとその時は方法がない。なので、私達は良心を守らないといけないし、罪を犯したならば悔い改め赦しを受けないといけない。神様は悔い改めるどんな罪でも全て赦してくださり、また回復してくださる。 結 論 クリスチャンは良心的でなければならない。良心的に生き、良心的に行動するべきである。聖書は信仰だけを強調するのではない。信仰とともに行動が伴わなければならない。つまり良心的な行動、良心的な生活、良心的な生き方が大切である。聖書ではいくつか良心的な生き方について語っている。ローマ13:7- マタイ 22:21-… 私一人だけ良いように考えてはならない。私達は共同体、神の家族である。またこの地の光と塩。なので、私から始め、良心的に生きようと努力するべきである。私が変わったら家庭が変わり、職場が変わり、教会と社会が変わる。神様の御国はこのように信仰の人、良心的な人々を通して成し遂げられる。 |