イェス様が昇天された後、弟子たちは一緒に集まり祈った。祈っている弟子たちの上に聖霊様が臨まれ、弟子たちは異言で語り始めた。(4節)これが異言の始まりだが、異言はイェス様が前もって預言された。(マルコ16:17)聖霊充満を受け、異言で話し始めて弟子達は驚くほど変わった。卑怯な者から大胆に、無能な者から力ある者に変わった。私達も聖霊充満を受け異言を語る時、弟子達のように変わり、大胆に神の福音を宣べる人となる。 異言はたくさんのクリスチャンに誤解される賜物だ。ある教団では、異言は救いの証であると言う。ある教団では、異言は意味が分からないから禁止している。しかし、聖書は異言を禁止しないように教えている。(Ⅰコリント14:39)異言は聖霊様が私達に与えてくださる九つの賜物の中の一つだ。これは、霊で神に語る言葉だ。(Ⅰコリント14:2)霊が語るから、飾ることも偽ることもない。また、神様だけに密かに語るため、誰も分からない。悪魔の邪魔も受けない。そして異言は自分の徳を高める。(Ⅰコリント14:4)異言の祈りを通して、信仰、人格が成長し、霊が聖くなる。従って、異言の祈りは大切だ。 異言について恵みを分かち合いましょう。 1.二種類の異言(Ⅰコリント13:1) (1) 人の異言 本文で120人の弟子達が語ったのは人の異言である。全く習っていない、少なくとも15か国の外国語で話し始めた。彼らの為に、エルサレムは大騒ぎになった。(12節) これが聖霊様の力だ。全能なる聖霊様が弟子たちに臨まれ、異言を語らせた。聖霊様が人の異言をくださる目的がある。海外から来た人達が自分の言葉で語ることを聞き、驚き、その日救われた者が3000人もいた。このように異言は有益である。私達の口を通して神の偉大な事を語ることを求める時、神様が異言を与えてくださる。 (2) 天使の異言 今日クリスチャンが受ける大半の異言は天使の異言である。もちろんこれは天使たちの言葉ではなく、地上にない言葉だから天使の異言と言っている。人の霊が異言で神様に祈るから、異言する人がもっと深い神の世界に入ることができる。しかし、異言の祈りをする時は時と場所を区分しなければならない。(Ⅰコリント14:15)公な場所では一般的な祈りで、個人祈りの時は異言で祈るべきである。このバランスを取れば、異言はとても有益なものだ。 2.異言の有益 (1) 聖霊の助けを受けることができる。 時々私達は何を祈れば良いか分からない時がある。その時、異言の祈りを捧げることで、聖霊様の助けを受け、必要な祈りを捧げることができる。(ローマ8:26) 聖霊様が私達の為に、執り成してくださる。 (2)長い時間、深く祈ることができる。 信仰生活の中で一番難しいのが祈りである。 最初に教会に来た人も賛美は楽しく歌う。 信仰をよく理解できないくても、奉仕も伝道も良くする。 しかし、祈ろうとしたら5分以上できない。 初心者だけではなく、教会に通っている多くの人の一番難しいと思うのが祈りである。 祈りの方法がわからないからではない、神様の力を受ける道だから、悪魔が力を受けさせない為に邪魔するからである。 なので、祈らないものは力を受けれない。 しかし、異言で祈るものは長く祈ることができる。 苦難にあった時に、ただ神様にすがることができ、徹夜することができる。 力ある働き人になることができる。 聖霊を受けて異言を受けた弟子達は180度変えられた。 聖霊と異言を受ける前にユダヤ人達を恐れて隠れていた。 しかし、聖霊を受けて異言を語った後彼らは大胆になり、彼らを殺そうとするユダヤ人達に福音を語った。皆力ある働き人に変えられた。 私達が聖霊を受けて異言を体験したら、私達も力ある働き人に変えられる。 聖書は聖霊を火に例える。 火は熱い、なので、聖霊を受けた人は熱いものである。 信仰生活も熱くし、賛美も祈りも熱く捧げる。 普段静かな人も祈りが始まったら祈りの時間には静かになるが、聖霊を受けなかったら普段うるさい人も祈りの時間になったら静かになる。 なので、信仰生活は聖霊を受けなければならない。 その聖霊の賜物が異言である。 異言の賜物を受ける方法 異言が私の為の賜物であることを信じなさい。 異言は聖霊の賜物である。聖霊は皆の有益の為に個々に聖霊の賜物を与えてくださる。 なので、異言は私達に必要である。異言はクリスチャンであるならば、皆受けることができる賜物である。なので、パウロはあなた方が皆異言を語ることを願うと言った。(Ⅰコリント14:5)ならば、私達も慕い求めて受けるべきである。その時に異言が与えられる。異言を受けたら信仰生活が変わり、祈りの生活が変わり、力ある信仰生活をすることができる。 異言は信仰によって求めるべきである。 他のすべての祈りと同じく、異言も信仰によって求めるべきである。 異言を受けれないのは、祈りが足りないのではなく、信仰によって祈らないかたである。鵜疑いながら、信じないで捧げる祈りは答えられない。의異言を受けたらいいなという希望だけではできない。信じて熱心に祈り続けるなら異言の賜物を与えてくださる。 異言を受けたかったら聖霊様が語るままに大胆に口を開けて語らなければならない。 行2:4- つまり異言を語るのは神様と人間の間の協力関係である。 異言は聖霊様が語るのではなく、人間、つまり私が語るのである。 例えば、舌がもつれたり、巻き込まれたりする現象が起こり、また不思議な単語が思いだされたりする。イザや28:11- このような現象が現れる時には、声を出して語るがままに語れば良い。 異言で語る為には聖霊様と協力する必要がある。 *私達は流暢な外国語だけが異言であると思うから、他の異言を無視する。 異言には2種類があって、今の主流は天使の異言であることを覚えよう。 落ち葉が少し動いたとのは、そこに風がある証拠である。つまり、私達の身に何かが起こるというのは、見えない聖霊様が働かれる証拠である。 結論 異言を受けても受けなくても続けて祈ることができる。 また異言は聖霊の賜物なので、与えられるかどうかは聖霊の御心である。 異言は救いと関係がない、イェス様を信じたら救われるのである。 異言を語れないから信仰が小さいのではない。異言と信仰を同一視してはならない。 しかし、異言は私達も有益なものなので慕い求めてほしい。 私の為の賜物であると信じて求める時に受けられる。聖霊様が語る時に従順して語るべきである。この異言を体験し、深く祈る皆さんとなりますように主の御名によって祝福する。
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序論 詩篇139編を読むと、聖書に記されている神の偉大さがわかる。神は尊い神であり、偉大な神であって、それは全知・遍在・全能に現れている。我らはその御前にひれ伏すのみであることを悟る。また、あまりにも偉大すぎて近寄れない遠い存在の方ではなく、この大いなる神様が私をどれほど大切に、高価な宝石のように御手で優しく包み、愛して下さっているのかがよくわかる。 今日はこの聖書の個所から、全知・遍在・全能の神を学びましょう。そして、改めてこの神を悟り、信じ、神の道に歩めるように。 本論 1全知の神(1-6節) たとえ自分の知らないことがあったとしても、神はそのすべてまでご存じであり(1-4節)、私よりも私を主日御言葉 知っておられる方である。心の思いも、動機も、考えも全部知っておられる。「私を探り=私を究め――奥深いところまで探ること、追究・探求」(ヘブル4:13) 神の中で安らぎを得たい、神と自分との間に何も置きたくないと願う人には、この御言葉は慰めであり、癒しである。誰にも言えない問題や悲しみ傷みを抱えていても、神は私のすべてを知っておられると。知るだけでなく、見守り(3節)前後から取り囲み(5節)御手を私の上に置いて下さる。つまり、守り、祝福する為の按手をしてくださる。(Ⅱコリント5:14) この様な方がいらっしゃるのは不思議であり、その方は私の神であるのは私達の光栄である。(6節)神と親しくなりたい、神に近ずきたいと願う者にはこれほど嬉しく、ありがたい真理は無い。(ヨハネ17:17)しかし、神の前に隠したい事があったり、神にも人にも知られたくない罪がある場合は、心が刺され、窮屈で逃げたくなる御言葉である。 御言葉は真理である。御言葉に心が刺されたら全知の神を認めて神の前に悔い改め、神との平安・和解を得ましょう。神の子イエス・キリストが、私の罪の為に、その罪を処分し、私を罪なき者にする為に、私の罪を全部背負い十字架にかかり、死と罪とに打ち勝って復活し、今も生きて私を守り導く神であることを信じましょう。信じて神に従う事が悔い改めである。神は悔い改める者を赦し、黒く汚れた罪を雪よりも白くし、神の子として下さる。(イザヤ1:18) 2遍在の神(7-12節) たとえ神から離れようとしても、神の目の届かない所に行こうとしても無理である。天も、よみ、つまり死の領域も神の支配下だからである。「暁の翼――超人的飛行能力、宇宙船に乗って飛び立とうとも、光のような速さであったとしても」、どこも神の存在があり、神の支配下にある。(エレミヤ23:24) 3全能の神(13-18) 神の全知、遍在の理由は神の全能の故である。(13節、15節)人の創造は神の業であり、人工的に人は造れない。「子供を造った」という言葉を良く使うがこれは間違っている。子供が神によって与えられたのだ。私は、私も私の親も知らない時とところで神によって形造られた。神のみが私の出生の最初から知っておられる。(「仕組まれた」=刺繍された、つずり合わされた) 驚嘆に満ちた感謝が書かれている。(14節)神によって創られた私は、神によって創り上げられる。(新改訳)恐ろしい力によって、驚くべき者に造りあげられていく。 「marvelous=優秀な、見事な、すばらしい、驚嘆すべき」 天上の書物に胎児の時から記されている(16節、ダニエル7:10)。これは、人間の行為の一つ一つが記されている書物である。神の全能は、私にさえここまで、隅々に手を加え造られている。 この神の不思議、全能を悟ることは難しい。(17-18節)「総計=神の御心の深さと複雑さ」。「目覚める時=眠っている間」も、主が共に居られ、目覚めてもそこに居られる神。全世界を造られた方は、どれほど全てを知り、成されたのか。 4 祈り(19-24節) 神の全知・遍在・全能を悟った者の告白が書いてある。神を知った者は、悪(神の嫌われること)(19-22節)を嫌い、自分自身を正しく清くすることを求め(23-24節)、正しい道に歩みたいと願う。「傷ついた道=苦痛をもたらす悪しき道」 結論 詩篇139編は、神と人との人格的関係と親密感を最も美しく、高く歌い上げた詩と言われている。神の全知・遍在・全能という極めて哲学的・神学的な神の属性を深く瞑想し、それを頭だけでなく、論じるだけでなく、人生の体験と信仰において描いている。 聖書はすべて雲の上の話ではなく、私と密接している。私の毎日、毎秒に関係している。自分の知らないところまで、自分を知っておられる神がいらっしゃる。その神があなたを愛し見つめておられる。今日この全知・遍在・全能の神の御言葉を聞いたのも偶然ではない。私達をどこまでも知っておられる方が、私達に意味のない事はなさらない。み言葉を聞いて、神を認める決心をしましょう。悔い改め神を信じる決心をしましょう。皆さんが神様と和解ができ、平安な関係になることを神様は願っておられる。神を信じている方々は、この全知・遍在・全能の神様を今以上に愛し、畏敬の念を持って仕えましょう。神の子どもらしく、全知の神を喜び、神に見せたくない物が一つもない信仰生活でありますように。 アブラハムは信仰の祖先である。信仰によって義と認められる信仰はアブラハムから始まったのだ。彼の信仰の特徴は従順である。彼は神様に出会った日から天国へ行く日まで相変わらず従順して来た人だった。本文を見ると、神様がアブラハムにこうおっしゃった。1-[ あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。]そしたら、彼は神様の御言葉に従順して行き先も分からずに故郷を離れた。これが真に従順である。頭で計算して納得してから従うのではなく、すべての環境と状況を乗り越えて従うのが従順である。このような人を神様が用いられる。ノアも、サムエルも、ダニエルも従順し、イエス様は死に至るまで従順したのだ(ピリピ2:8)。このように信仰の人は実は、従順する人であるということ。しかし、今日のクリスチャンはなかなか従順しない。何年間信仰生活をしても、神様の御言葉に従順しないのはなぜだろうか。それは、このような人々は実は神様と御言葉を本気で信じているわけではないからである。このように信仰と従順は一つである。それは時には信仰として表れ、時には従順として表れのである。今日は本文を通して、アブラハムの従順と信仰に関して恵みを分かち合いたいと思う。 1.行き先も知らずに従う信仰 1節を見ると、神様がアブラハムに故郷を出るようにとおっしゃった。このように私達は信仰の為に、まずは不信仰から、偶像崇拝から、罪の生活から離れる必要がある。過去に留まるとそれらは必ず私達の信仰を躓かせる。離れるというのは実は簡単ではなく、私達にとってつらく感じるかもしれない。それでも、永遠の命を得て祝福を得るためには離れなければならない。しかし、ここで問題が生じる。それは、アブラハムは自分が故郷を離れてからどこに行けばいいか分からない点である(ヘブライ11:8)。このような状況の中でも神様がすべてを計画されたと信じて、委ねるのが真の信仰である。ノアの箱舟にもハンドルがなかったように、アブラハムが行き先も知らずに神様に委ねたように、私達も自分の人生を神様に委ねよう。 2.望みえない時に望みを抱いた信仰 パウロはアブラハムについてこう言った。ローマ書4:18-『彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。』 神様は75歳になるまで子供がいなかったアブラハムに、空の星よりも多く子孫を与えると約束してくだった。アブラハムはその言葉通りに信じ、神様はアブラハムを義と認められた(創世記15:6)。しかし、25年が経っても子供は生まれなかった。アブラハムの年100歳、妻サラの年90歳になって、神様が再び子孫を与えるとおっしゃった。常識で考えるとこれはあり得ない話である。しかし、アブラハムは神様の言葉を疑わず「アメン」で受け入れ信じた。この信仰が望みえない時に望みを抱いた信仰である(ローマ書4:19-20)。このような信仰を持つ時、神様の奇跡を見ることができる。 3.アブラハムの従順 アブラハムは100歳になって、息子イサクを得るようになった。ある日、神様がアブラハムを試みられた(22:1-2)。アブラハムに愛する息子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさいという言葉をおっしゃったのだ。もし、神様が皆さんに自分の一番愛するものを捧げなさいとおっしゃったらどうするのか。アブラハムは文句ひとつ言わずに従順した(創世記22:3)。自分の命よりも大切にしていた息子だったが、神様の命令である故に、息子を連れて山に向かった。三日間の路程で、彼は信仰を後悔しなかったし、神様を否定しなかったのだ。このように、神様がアブラハムに求めるのは段々従い難くなっていたが、今回も昔と同じく従順の道を歩んだ。私達もこのような信仰者にならなければならない。ある人は最初は良く従順しても、信仰の年数の増加につれて、段々不従順に陥る場合がある。神様はアブラハムの変わらない従順に大きく感動し、偉大な祝福を約束される(創世記22;16-18)。従順には神様の祝福がついて来るのだ。 結論 アブラハムの従順はどんな従順だったのか。最初から最後までの従順だった。行き先も知らずに従順し、不可能であることを知っていながらも従順した。今日礼拝に参加したすべての聖徒がこのように従順の人、信仰の人になれるように祝福します。 |