序論
神の真実が語られているところ。しかし、エリファズはこの神の真実を通してヨブを罪に定めている。早天礼拝で学んでいるヨブ記。飽きてきてないか?苦しみばかり言われて。私達も同じことばかり言われたら嫌である。しかし、同じ御言葉が与えられる時は注意して聞くべきである。毎日メッセージを準備するうちに苦しみと言う狭い部屋に入れられた時、あらゆる脱出法を学べることがわかった。ある時は窓を開ける、ある時は扉、ある時は天井、ある時は床をはがして祈る。あらゆる事態に臨機応変な人になれるよう、信仰の目が開かれ、強められる。苦難を通し、自分が大きくなり、人も助けられるようになる。注意することは、エリファズのように神論を突き付けて、人を罪に定め、裁く者とならないように。 本論 1:苦難の中に居られる神(17~21節) 聖書に記されている神は、全知・全能・道であり、命であり、真理である神、私のすべてを知ってお 主日御言葉 られ、私を正しく導き、祝福と恵みを与え、神を信じる者には天国まで導く神様、この神様に出会う体験 をしていない人は、神様を求めよう。必ず出会える。苦しみの時、「神も仏もいない」と言う事を聞くが、、苦しみの中に神はいる。今日の聖書の個所、苦難の中にもおられる神である。神に責められる人は幸い櫓あります(1)苦しみの時こそ神に出会えるチャンス。 この中にも、苦しかった時に神にすがって、祈って、神に出会った人がいるだろう。 全ての事は・・・良いことも悪いことも・・・神様の御手の中の出来事、神が赦されなければ物事は起こらない(ヨブ1:12)ある時は傷つき、痛む。しかし、その傷を包んで下さる神様、癒して下さる神様を、傷み、傷によって知ることができる。実際、命の危険から、(20)人々の言葉で苦しめられても(21) それゆえ苦しみ、試練をないがしろにしてはいけない。(17) ヘブル12:5~11神が愛しておられるから、私を正しくする為に、私の益の為、神の清さにあずからせる為、平安な義の実を結ばせる為に(ヤコブ3:17,18) 申命記8:2,5,16私の心の内を探り(神を認めるか、信じるか)、親のように訓戒し、幸せに導く為だから、神からの懲らしめ・・試練・苦しみ・・を、ないがしろにしてはいけない。(ないがしろというのは軽視したり無視すること) 神は苦しみを与えても人をつぶしたり、ダメにするためではない 子供を愛する親のような愛 苦しみ、試練の時に神の愛を体験できる 必要以上に苦しめない神 19節 6つ、7つ・・・「多く」と言う意味どんなに訓練しても必要以上の苦しみを与えない与えた苦しみも訓練も、そこから必ず救いだせる神飢えであっても、死に直面しても(20)・・・肉体的苦難人の言葉で撃たれても、つぶされそうな恐れの中でも(21)・・・精神的苦難:苦難の中で守られる私(22~23)神がこの苦しみを通しておられる事を悟るなら 22節 肉体的、精神的、現状から来る苦しみ、狂暴な者をも恐れない平安 23節 妨げ、敵となる物と自分の間に神が入り契約を結び、和解をされる恐れない平安と和解の契約で、私を苦しみから守られる。 3:苦難の後の祝福(24~26) 神の祝福のプレゼントは、苦しみ、試み、試練と言う包装紙に包まれている 自分が、一枚一枚 苦難、試練の包装紙を開いた後、神の祝福が手に入る。 神は愛の神、救いの神、苦難、試練があっても、神を信じて歩むなら、祝福のプレゼントはあなたの手に入る。 どんな祝福か自分の安全が確認できる。何も失っていないことが分かる。 子孫の祝福・・・当時最大の祝福 充実した人生・・・長寿=気力 結論 苦しみがあるけど何も変わっていない。苦しみがあったけど、いまだにひこずっている 良くなっていない・・・神の前に正しく歩いているのか?苦しみの中には試練と罪からの罰がある。 試練は、その人を強くし、立たせ、立派にする物。 罪からの罰・・・間違っているところを直す為の矯正。 神を今迄無視してきたこと。聞いても信じない、拒否してきたこと。 子供に無視されたり、軽蔑されたらどうなる? 神様は私達の天のお父様、私達を天国に入れる為、ご自分の子ども、イエスキリストを皆さんの罪と一緒に十字架につけて処分し、イエスキリストを信じる者を、罪を赦し、神の子どもとされる。何も変わらない、解決されない、不幸だと思っている人は神様を信じて神様の教えられる道に歩んでみよう。 今日、教会に来たことも、聖書の話を聞いたことも、偶然ではない。 神様があなたを愛してここに招き、神を受け入れるよう招待されている。 あなたを救い、永遠の天国へいける、神の子どもとする為に。 今、幸せでも、不安で不幸だと思っていても、神様はあなたを愛し、包み、神を信じ、神の道に歩む人になることを願っておられる。苦しみも益に変えて下さる神様である。
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アブラハムがカナンに来て何年も沈黙された神様はアブラハムに現れた。そして、素晴らしい祝福を語った。今日の本文全てが祝福の言葉である。
あなたとあなたの子孫にこの地を永久に与えよう。あなたの子孫を地のチリのように増やし,あなたが踏む地を全て与えよう。 神様がこのように語った理由は二つある。 (1)アブラハムを慰める為である。 子どもがいないアブラハムはロトを自分の子どものように考えて育て、長い間一緒にいたので、情が移っていると思う。血が繋がっているロトなので、アブラハムは深く失望したと思う。そのようなアブラハムを慰めようと現れたのである。 このように神様も失望している私達のところに来られ、私があなたと共にいる、私があなたを助けると慰めてくださる。 (2)神様の祝福はロトが離れてから初めて望むということを教えてくださるためである。 主日御言葉 ロトは肉的な考え、人間的な考えを意味している。この肉の部分が除去される時に、神様の祝福が望む。 1.信仰の人アブラハム 真の信仰はいつも愛をという形態で現れる。 神様の御言葉が信仰の人を愛の人として変えてくださるから。一人の律法学者がイェス様に尋ねた時に、このように答えた。マタイ22:37-39 このように信仰は神様に対する愛、隣人に対する愛として現れる。アブラハムの愛の人だった。ロトの全ての祝福はアブラハムを通して与えられたが、ロトは恵みを知らず、自分の為に良い土地を探してはアブラハムを離れた。しかし、アブラハムは変わらない愛を持ってロトを愛し、助ける。14章を見るとロトが住んでいたソドムの地域に4か国の連合軍が侵略してきた時に、ロトもその家族も捕まえられて、全ての所有を失った。ロトを救ったのがアブラハムである。たったの318人で数千数万の大軍と戦って勝利をした。卵で岩を打つような戦いだったが、アブラハムはロトを救う為に、命がけで戦った。この方がつまり信仰の人アブラハムだった。変わらずロトを愛した。また18章でもアブラハムはロトの命を救う。ロトが住んでいたソドムとゴモラは霊的に堕落し、罪は天にまで届いた。19:24-25 ソドムとゴモラは完全に滅ぼされた。ノア時代以後、初めての火による裁きだった。これは最後の時代にある裁きは火の裁きであることを暗示している。イェス様はこのようにおっしゃった。ルカ17:29-30その時に唯一救われたのがロトとその家族だけだった。その理由はアブラハムの故だった。アブラハムがロトの為に一生懸命を執り成し祈りをしたから。5回も神様に執成した。19:29 アブラハムはこのように信仰の人、愛の人だった。 自分を苦しめ、傷を与えた人々さえも最後まで愛するのが信仰である。マタイ5:44-46私達もこのように信仰の人愛の人になろう。 2.神様の祝福は信仰によって受ける。14-15 東西南北でアブラハムが見る祝福は全ての地を与える。人の目は30キロ以内しか見えない。しかし、アブラハムが得た土地はとても莫大な地だった。15:18 アフリカと中東のほぼ全地域の地を約束として約束としていただいた。 なぜ、アブラハムはこのように大きな地をもらうことができたのか?アブラハムは神様の御言葉を肉眼で見たのではなく、信仰の目で見たからである。 私達はどのように神の祝福を受けることができるか。信仰によって、聖書を通して約束された3万個以上の祝福を受ける。自分の能力と行いでもらえるものではない。神は信じる者の神様である。パウロ使徒はどのように異邦人の使徒となり、世界福音化の先駆者となったのか。信仰の目で神の御言葉を見たからだ。彼はユダヤ人の福音伝道に失敗した人だが、むしろ信仰の目で神様を見上げ、偉大なビジョンを見つけた。(使徒行伝13:46-47)元々はイェス様に関する預言の言葉だが、パウロは「この言葉は私のです。異邦人伝道をします!」と受け取ったのだ。何事でも信仰の目で見る時世界は変わる。(詩編2:8)今私達に必要なのは信仰で見て、求める事だ。 3.信仰の人は信仰によって生きなければならない。 アブラハムの祝福はいつ与えられたか。ロトが離れた後だった。(14節)つまり、信仰の人から肉的な考えと方法がなくなれば、神様の祝福が臨む。(士師記2:3)肉的なもの、世的なものをとりのぞかなければ、それによって葛藤し、苦しまれる。なぜ誘惑に負け、罪を犯すか。悪魔は私達より強いからだ。それに勝つ方法は信仰しかない。なので信仰を盾とも言う。(エペソ6:16)信仰があればどんな誘惑も勝つことができ、どんな問題も解決することができるが、信仰がなければ小さな誘惑にも負け、小さな問題にも倒れる。アブラハムがどのように神様の祝福を受けたのか。信仰によって生きたからだ。神様の召しを受けた時も信仰によって従順した。どこに行けばいいか分からない時も神様を信じた。ロトを送る時も、連合軍と戦う時も信仰によって生きた。私達にもこのような信仰が必要だ。そして、信仰通り生きなければならない。義人はただ信仰によって生きる。その時神様が恵みで導いてくださる。このような祝福を受けますように。 結 論: 信仰について、1.信仰の人は愛の人となる、2.神様の祝福は信仰によって受け取ることである、3.信仰の人は信仰によって生きることを学んだ。 私達が信仰の人となる時、神の祝福が臨まれる。このような信仰の人となることを祝福します。 |