神様の訓練〜黙想エッセイより

牧師コラム

姜 讃馨師

担任牧師

神様の訓練〜黙想エッセイより

この世で能力が有る人も、神様が許されてこそ素晴らしい人生の舞台に上がる事が出来ます。
その様な人は、神様が来いと言われれば来て、行けと言われれば行くのです。では、その様な人は操り人形でしょうか?
もちろん違います。
俳優にアドリブが許される様に、私たちに与えられた役割にも一定のゆとりがあり、余白が有ります。
悪役も配役です。
しかし、与えられた役割以上のことをすればどうなるでしょうか?
その悪役を適切にこなす事が出来なければ、神様に罰せられます。
アッシリアとバビロンは悪役の様に用いられましたが、裁かれ滅びました。度を越した場合、その悪はそのまま自分に返ってきます。
私はイエス様を信じる者達が悪役になることがない様に願います。
しかし、もし避けられない役割なら、最小限のものである様に祈ります。
人生も、信仰も、いつも逆説的です。
終わりは始まりであり、死ぬ道こそが生きる道です。低くなる事が高くなる道であり、後のものが先になります。
ですから、いつも相手の身になって考え、小さな事に一喜一憂しない様にしましょう。良い心を持つためには、最後まで善を貫き、仕える者になるためには、最後まで仕えましょう。
神様がどの様な人を私たちに送り、どの様に鍛えられるのか、私たちには分かりません。
訓練の目的は、変わらない塩の様な品性を持つ事です。その様な品性を生み出すために試練が与えられるのです。
苦しみの中で神様だけに依頼み、私たちの品性が正しく練られていくなら、その試練は益なのです。

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